高校野球あれこれ 第103号
~甲子園に旋風を起こしたチーム-【8】1987年春のPL学園~
「逆転のPL」が復活した春
今回は久しぶりに「甲子園に旋風を起こしたチーム」です。この年はPL学園が春夏連覇しますが、夏の選手権は春優勝の貫禄と自信からすべての試合で3点差以上の勝利と接戦で苦戦した試合はありませんでしたので、好勝負が多かった春の大会、その中でも延長戦になった準々決勝と準決勝を振り返ります。
この大会の優勝候補は前年覇者の池田、前年秋の近畿大会覇者の京都西(前年ベスト8進出の立役者、エースの佐々木投手が健在)、他に長崎の海星、試合巧者の明徳義塾などでPL学園も一応は有力校の一つに挙げられていたが、大阪3位、近畿大会準決勝敗退では、さほど前評判は高くなかった。
初戦の相手は、大会№1サウスポーの呼び声高い石貫宏臣を擁する西日本短大付だったが3-1で乗り切ると2回戦の広島商戦は8-0と完勝、ベスト8へ進出する。
準々決勝は強敵・帝京との対戦。帝京の芝草宇宙投手は2回戦で優勝候補の京都西を完封して勢いに乗っていた。
1回裏、PLは二番の尾崎晃久が帝京のエース芝草宇宙からソロ・ホームランを放ち1点先制。しかし帝京も4回表、PL先発の野村を攻めて1点を返し同点に追い付く。
だがPLは5回裏に一番・蔵本新太郎の左前打で1点を加え、2-1と勝ち越した。PLは7回途中から橋本にスイッチ、逃げ切りを図る。
9回表、粘る帝京は大井剛が中前適時打を放ち、同点に追い付いた。
延長戦に入り10回表、帝京は四球を選び無死一塁。ここでPLベンチが動く。ピッチャーを橋本に代えて、前の試合では不安定だった岩崎をリリーフに送った。もう後ろのピッチャーがいなくなったPL。
帝京は送りバントをせずに強攻策、これが当たってセンター前ヒット、無死一、三塁と絶好のチャンス。三番手投手の岩崎、ここは落ち着いて次打者を三振に打ち取る。一死一、三塁、途中出場の池野繁の打席で帝京はスクイズを敢行。しかし、岩崎はキレの鋭いカーブで空振りに仕留め、飛び出した三塁走者は憤死、PLは絶体絶命の大ピンチをしのいだ。
延長11回裏、PLは二死一、三塁のチャンスで打席は六番の長谷川将樹。芝草の速球を捉えた長谷川の打球はライト前へ。PLのお家芸・サヨナラ勝ちで準決勝に進出した。
勝利を呼び込んだのは「第三の投手」岩崎の好投であり、「勝負弱い」と言われていた長谷川の一打という、いずれも脇役の選手だったのである。それは、KK時代とは違うこの年のPLを象徴していた。
準々決勝{延長11回}
帝京 000 100 001 00=2
P L 100 010 000 01x=3
余談だが両チームは夏の準決勝で再戦し、PL学園が12-5で返り討ちにしている。
個人的な意見だがこの準決勝の帝京の芝草宇宙投手は連戦で疲れていた。球威に伸びがないように感じた。2回戦から3試合連続完封は見事だが準々決勝の関西戦で控えの平山投手が投げ、PL学園では一日休んだ状態で芝草投手が投げたら結果は違っていたと思うのだが。今と違って高野連に「休養日」や「投球制限」、「複数投手の育成」という考えなどまったくなかった時代。炎天下の投手の疲労度は凄まじかったと思う。
さて、PL学園の春の選抜に戻り、準決勝の相手は、センバツ初出場ながら夏は甲子園ベスト4の実績を持つ東海大甲府。
エースの山本信幸は二回戦、準々決勝と2試合連続完封で調子を上げていた。
打線も一番打者の久慈照嘉を中心に得点力があり、下馬評では好勝負の予想。東海大甲府は初回、PL先発・野村の立ち上がりを攻めていきなり2点先制した。
3回裏にも野村を攻め立てて早くもKO、さらにリリーフの橋本も捉えて3点を奪い、試合を有利に進める。
しかもPLは、帝京戦で芝草からホームランを放ったセカンドの尾崎がイレギュラー・バウンドを顔面に受けて負傷退場、代わって準々決勝までレフトで先発出場していた西本篤史がセカンドに入るという非常事態。
一方、攻撃陣は3回まで山本にパーフェクトで抑えられ、しかも0-5と一方的リードを許したPLだったが、選手たちが慌てることはなかった。
「昨秋の近畿大会でも、大商大堺に1-5から逆転勝ちしたんや。今日だって負けるわけはない」そう信じたPLナインは4回表に1点を返し、さらに6回表にはまさしく神風が吹いた。
尾崎に代わって二番に入った西本の当たりは平凡なレフト・フライ、と思いきや強風のためレフトが目測を誤り2ベース。
さらに四番・深瀬のレフトへの高いフライも、またもやレフトが強風で捕れずに二塁打となった。
そして野村に代わって五番に入った橋本が左前打、六番の長谷川がレフト・オーバーの2ベース、仕上げは七番の片岡篤史のレフト線への二塁打と、この回だけでレフトへの二塁打を4本集中させて同点に追い付いた。だが、ここから山本が踏ん張り試合は膠着状態に入る。
9回を終えて5-5の同点、試合は延長戦に突入した。PLは橋本から岩崎にスイッチ、もう後ろにリリーフはいない。一方の東海大甲府は山本がマウンドを守り続ける。
岩崎は二回戦の広島商戦での不安定な投球がウソのように、東海大甲府打線を完璧に抑えた。
そして延長14回表、PLは二死満塁のチャンスを掴み、打者は準々決勝のヒーロー長谷川。
「四球の後の初球」を叩いた長谷川の打球はレフト頭上を遥かに越える、走者一掃の2ベースとなった。「勝負弱い男」長谷川の、2試合続けての殊勲打により東海大甲府を8-5で振り切り、PLは決勝進出。
まさしく「逆転のPL」の真骨頂だが、甲子園で5点ビハインドをひっくり返したのは、後にも先にもこの試合だけである。
このころの「東海」といえば「相模」ではなく「甲府」の時代。敗れはしたが延長14回を一人で投げぬいた東海大甲府の山本投手の熱闘は素晴らしかった。同点に追いつかれてから延長戦に入っても気迫を前面に押し出し、ピンチ脱出の時のガッツポーズは最高に恰好がよかった。初の決勝進出が目前だっただけに悔やまれる。
準決勝{延長14回}
P L 000 104 000 000 03=8
東海大甲府 203 000 000 000 00=5
東海大甲府のショート、久慈照嘉はプロ入り後、この試合を次のように振り返っている。
👇
“西の立浪、東の久慈”と注目を浴びた。「そう言ってもらっていたのは知っているけど、立浪に言うと怒られるよ」と笑うが、PL学園戦は2安打を放ち、激闘を演出した。
当時のPL学園は立浪、片岡、野村弘樹、橋本清が主力。強豪を攻略するために、大八木監督は徹底して相手捕手を分析したという。「このカウントはこの球が多い」「3球で攻撃が終わってもいいから初球から直球を狙え」。指示通りの攻撃で先発・野村を三回途中でKO。3回で5点をリードした。だが、PL学園は底力が違っていた。「みんな体が大きいし、個々の力が違い過ぎた。球場の雰囲気が完全アウェーで、気後れもあったなあ」。延長十回に片岡のライナーをジャンピングキャッチする美技も見せたが…。連投のエース・山本信幸投手が200球を超える熱投の末、延長十四回に競り負けた。それでも87年に甲子園春夏連覇を果たす名門を最も苦しめた試合だった。久慈照嘉は当時、試合後に「優勝を狙っていたのに悔しい」とコメントを残している。あと一歩で“金星”を逃したが、最強軍団を追い詰めた熱戦は一番の思い出だ。「相手をビビらせられたかな。(当時のPL学園)中村監督に焦ったか、聞いてみたいね」。聖地での興奮を思い出すと、自然と声ははずんでいった。
余談だが春の実績から夏の大会ではPL学園の対抗馬として優勝候補の2番手に挙げられていた東海大甲府。しかし、初戦の佐賀工戦で優勝の夢は打ち砕かれる。「すごい、あんな球は打てない」。1回に三振してベンチに帰った東海大甲府の先頭打者の天川は叫んだ。大八木監督も「今まで対戦した誰よりも、数段速い」と脱帽。スカウトの声も「伊良部より速い」で一致。現在のスピードガンなら楽に150キロは超えていただろう。佐賀工、江口投手に4安打、9三振を奪われ、甲子園を去った。東海大甲府はこの後、1990年春、2004年夏、2012年夏と3度ベスト4に進出しているがいずれも敗退。特に1990年春は1点リードしてあとアウト1つまで相手(近大付)を追い詰めたがそこから驚異の粘りにあい、延長13回の末に敗退した。東海大甲府にとってベスト4の壁はとてつもなく厚い。
話をPL学園に戻す。
この大会でのPLは、KK時代とは明らかに異なる戦いぶりだった。
桑田1人に頼っていた投手陣が、この大会では3投手による継投で、史上初の「完投投手なしによる優勝」となった。しかも柱になる投手がいなかったわけではなく、先発は左腕の野村、中継ぎに剛球の橋本、抑えは変化球の岩崎という、異なるタイプのエース級ピッチャーを次々に継ぎ込む、これまでの高校野球には見られなかった戦法。まるでプロのように、投手分業制を敷いて優勝した初めての高校だった。
そして打線でも、「清原二世」と呼ばれた深瀬ですらスリーバント・スクイズをさせるなど、全員で1点をもぎ取る執拗な攻撃。清原が中心だった頃と違い、ホームランは尾崎の1本だけ。
それでも長打力が無かったわけではなく、ここぞというところで集中打をたたみ掛け、誰かが不振でも誰かが穴を埋めるという全員野球。二回戦の広島商戦以外は苦戦の連続だったが、驚異の粘りで「逆転のPL」の復活を印象付ける大会でもあった。
大阪3位、近畿大会準決勝敗退という「弱いPL」が春の頂点に立つことにより、自信を付けた選手たちは、恐るべき強力チームとなって夏を迎えるのである。
夏は前述したとおり、全試合3点差以上の横綱相撲で危なげなく勝ち上がり春夏連覇を達成した。この時のPL学園からは後に5人がプロ入りしたことをみれば当然とも思える。
本日は以上です。
「PL学園最強世代 あるキャッチャーの人生を追って」を紹介します。
【立浪和義、片岡篤史、野村弘樹・橋本清・岩崎充弘の投の3本柱……。1987年、甲子園を春夏連覇したPL学園は、「史上最強」と称されていた。チームの正捕手を務めた伊藤敬司もまた、中心メンバーとして優勝へ大きく貢献した。
伊藤はPL学園を卒業後、青山学院大学を経てJR東海野球部へ入部。プロという夢は果たせなかったものの、野球部を引退後は、大企業のサラリーマンとして第二の人生をスタートさせた。
しかし、順風満帆と思えた人生は、理不尽な病によって一変した。難病・ALSを宣告されたのだ。身体は日々動かなくなっていき、やがては声も失った。昨日できたことが今日できない恐怖、介護なしでは生きられない情けなさ、残していく家族への不安……。そんな思いを抱えながら、それでも伊藤は毎日を懸命に生きている。
伊藤にとって、PL時代の春夏連覇はどんな意味を持っているのか。男は今、何を思い難病と戦っているのか。過ぎ去りし青春と友情の日々と、彼を励まし続ける仲間たちの物語。】
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「逆転のPL」が復活した春
今回は久しぶりに「甲子園に旋風を起こしたチーム」です。この年はPL学園が春夏連覇しますが、夏の選手権は春優勝の貫禄と自信からすべての試合で3点差以上の勝利と接戦で苦戦した試合はありませんでしたので、好勝負が多かった春の大会、その中でも延長戦になった準々決勝と準決勝を振り返ります。
この大会の優勝候補は前年覇者の池田、前年秋の近畿大会覇者の京都西(前年ベスト8進出の立役者、エースの佐々木投手が健在)、他に長崎の海星、試合巧者の明徳義塾などでPL学園も一応は有力校の一つに挙げられていたが、大阪3位、近畿大会準決勝敗退では、さほど前評判は高くなかった。
初戦の相手は、大会№1サウスポーの呼び声高い石貫宏臣を擁する西日本短大付だったが3-1で乗り切ると2回戦の広島商戦は8-0と完勝、ベスト8へ進出する。
準々決勝は強敵・帝京との対戦。帝京の芝草宇宙投手は2回戦で優勝候補の京都西を完封して勢いに乗っていた。
1回裏、PLは二番の尾崎晃久が帝京のエース芝草宇宙からソロ・ホームランを放ち1点先制。しかし帝京も4回表、PL先発の野村を攻めて1点を返し同点に追い付く。
だがPLは5回裏に一番・蔵本新太郎の左前打で1点を加え、2-1と勝ち越した。PLは7回途中から橋本にスイッチ、逃げ切りを図る。
9回表、粘る帝京は大井剛が中前適時打を放ち、同点に追い付いた。
延長戦に入り10回表、帝京は四球を選び無死一塁。ここでPLベンチが動く。ピッチャーを橋本に代えて、前の試合では不安定だった岩崎をリリーフに送った。もう後ろのピッチャーがいなくなったPL。
帝京は送りバントをせずに強攻策、これが当たってセンター前ヒット、無死一、三塁と絶好のチャンス。三番手投手の岩崎、ここは落ち着いて次打者を三振に打ち取る。一死一、三塁、途中出場の池野繁の打席で帝京はスクイズを敢行。しかし、岩崎はキレの鋭いカーブで空振りに仕留め、飛び出した三塁走者は憤死、PLは絶体絶命の大ピンチをしのいだ。
延長11回裏、PLは二死一、三塁のチャンスで打席は六番の長谷川将樹。芝草の速球を捉えた長谷川の打球はライト前へ。PLのお家芸・サヨナラ勝ちで準決勝に進出した。
勝利を呼び込んだのは「第三の投手」岩崎の好投であり、「勝負弱い」と言われていた長谷川の一打という、いずれも脇役の選手だったのである。それは、KK時代とは違うこの年のPLを象徴していた。
準々決勝{延長11回}
帝京 000 100 001 00=2
P L 100 010 000 01x=3
余談だが両チームは夏の準決勝で再戦し、PL学園が12-5で返り討ちにしている。
個人的な意見だがこの準決勝の帝京の芝草宇宙投手は連戦で疲れていた。球威に伸びがないように感じた。2回戦から3試合連続完封は見事だが準々決勝の関西戦で控えの平山投手が投げ、PL学園では一日休んだ状態で芝草投手が投げたら結果は違っていたと思うのだが。今と違って高野連に「休養日」や「投球制限」、「複数投手の育成」という考えなどまったくなかった時代。炎天下の投手の疲労度は凄まじかったと思う。
さて、PL学園の春の選抜に戻り、準決勝の相手は、センバツ初出場ながら夏は甲子園ベスト4の実績を持つ東海大甲府。
エースの山本信幸は二回戦、準々決勝と2試合連続完封で調子を上げていた。
打線も一番打者の久慈照嘉を中心に得点力があり、下馬評では好勝負の予想。東海大甲府は初回、PL先発・野村の立ち上がりを攻めていきなり2点先制した。
3回裏にも野村を攻め立てて早くもKO、さらにリリーフの橋本も捉えて3点を奪い、試合を有利に進める。
しかもPLは、帝京戦で芝草からホームランを放ったセカンドの尾崎がイレギュラー・バウンドを顔面に受けて負傷退場、代わって準々決勝までレフトで先発出場していた西本篤史がセカンドに入るという非常事態。
一方、攻撃陣は3回まで山本にパーフェクトで抑えられ、しかも0-5と一方的リードを許したPLだったが、選手たちが慌てることはなかった。
「昨秋の近畿大会でも、大商大堺に1-5から逆転勝ちしたんや。今日だって負けるわけはない」そう信じたPLナインは4回表に1点を返し、さらに6回表にはまさしく神風が吹いた。
尾崎に代わって二番に入った西本の当たりは平凡なレフト・フライ、と思いきや強風のためレフトが目測を誤り2ベース。
さらに四番・深瀬のレフトへの高いフライも、またもやレフトが強風で捕れずに二塁打となった。
そして野村に代わって五番に入った橋本が左前打、六番の長谷川がレフト・オーバーの2ベース、仕上げは七番の片岡篤史のレフト線への二塁打と、この回だけでレフトへの二塁打を4本集中させて同点に追い付いた。だが、ここから山本が踏ん張り試合は膠着状態に入る。
9回を終えて5-5の同点、試合は延長戦に突入した。PLは橋本から岩崎にスイッチ、もう後ろにリリーフはいない。一方の東海大甲府は山本がマウンドを守り続ける。
岩崎は二回戦の広島商戦での不安定な投球がウソのように、東海大甲府打線を完璧に抑えた。
そして延長14回表、PLは二死満塁のチャンスを掴み、打者は準々決勝のヒーロー長谷川。
「四球の後の初球」を叩いた長谷川の打球はレフト頭上を遥かに越える、走者一掃の2ベースとなった。「勝負弱い男」長谷川の、2試合続けての殊勲打により東海大甲府を8-5で振り切り、PLは決勝進出。
まさしく「逆転のPL」の真骨頂だが、甲子園で5点ビハインドをひっくり返したのは、後にも先にもこの試合だけである。
このころの「東海」といえば「相模」ではなく「甲府」の時代。敗れはしたが延長14回を一人で投げぬいた東海大甲府の山本投手の熱闘は素晴らしかった。同点に追いつかれてから延長戦に入っても気迫を前面に押し出し、ピンチ脱出の時のガッツポーズは最高に恰好がよかった。初の決勝進出が目前だっただけに悔やまれる。
準決勝{延長14回}
P L 000 104 000 000 03=8
東海大甲府 203 000 000 000 00=5
東海大甲府のショート、久慈照嘉はプロ入り後、この試合を次のように振り返っている。
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“西の立浪、東の久慈”と注目を浴びた。「そう言ってもらっていたのは知っているけど、立浪に言うと怒られるよ」と笑うが、PL学園戦は2安打を放ち、激闘を演出した。
当時のPL学園は立浪、片岡、野村弘樹、橋本清が主力。強豪を攻略するために、大八木監督は徹底して相手捕手を分析したという。「このカウントはこの球が多い」「3球で攻撃が終わってもいいから初球から直球を狙え」。指示通りの攻撃で先発・野村を三回途中でKO。3回で5点をリードした。だが、PL学園は底力が違っていた。「みんな体が大きいし、個々の力が違い過ぎた。球場の雰囲気が完全アウェーで、気後れもあったなあ」。延長十回に片岡のライナーをジャンピングキャッチする美技も見せたが…。連投のエース・山本信幸投手が200球を超える熱投の末、延長十四回に競り負けた。それでも87年に甲子園春夏連覇を果たす名門を最も苦しめた試合だった。久慈照嘉は当時、試合後に「優勝を狙っていたのに悔しい」とコメントを残している。あと一歩で“金星”を逃したが、最強軍団を追い詰めた熱戦は一番の思い出だ。「相手をビビらせられたかな。(当時のPL学園)中村監督に焦ったか、聞いてみたいね」。聖地での興奮を思い出すと、自然と声ははずんでいった。
余談だが春の実績から夏の大会ではPL学園の対抗馬として優勝候補の2番手に挙げられていた東海大甲府。しかし、初戦の佐賀工戦で優勝の夢は打ち砕かれる。「すごい、あんな球は打てない」。1回に三振してベンチに帰った東海大甲府の先頭打者の天川は叫んだ。大八木監督も「今まで対戦した誰よりも、数段速い」と脱帽。スカウトの声も「伊良部より速い」で一致。現在のスピードガンなら楽に150キロは超えていただろう。佐賀工、江口投手に4安打、9三振を奪われ、甲子園を去った。東海大甲府はこの後、1990年春、2004年夏、2012年夏と3度ベスト4に進出しているがいずれも敗退。特に1990年春は1点リードしてあとアウト1つまで相手(近大付)を追い詰めたがそこから驚異の粘りにあい、延長13回の末に敗退した。東海大甲府にとってベスト4の壁はとてつもなく厚い。
話をPL学園に戻す。
この大会でのPLは、KK時代とは明らかに異なる戦いぶりだった。
桑田1人に頼っていた投手陣が、この大会では3投手による継投で、史上初の「完投投手なしによる優勝」となった。しかも柱になる投手がいなかったわけではなく、先発は左腕の野村、中継ぎに剛球の橋本、抑えは変化球の岩崎という、異なるタイプのエース級ピッチャーを次々に継ぎ込む、これまでの高校野球には見られなかった戦法。まるでプロのように、投手分業制を敷いて優勝した初めての高校だった。
そして打線でも、「清原二世」と呼ばれた深瀬ですらスリーバント・スクイズをさせるなど、全員で1点をもぎ取る執拗な攻撃。清原が中心だった頃と違い、ホームランは尾崎の1本だけ。
それでも長打力が無かったわけではなく、ここぞというところで集中打をたたみ掛け、誰かが不振でも誰かが穴を埋めるという全員野球。二回戦の広島商戦以外は苦戦の連続だったが、驚異の粘りで「逆転のPL」の復活を印象付ける大会でもあった。
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夏は前述したとおり、全試合3点差以上の横綱相撲で危なげなく勝ち上がり春夏連覇を達成した。この時のPL学園からは後に5人がプロ入りしたことをみれば当然とも思える。
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伊藤はPL学園を卒業後、青山学院大学を経てJR東海野球部へ入部。プロという夢は果たせなかったものの、野球部を引退後は、大企業のサラリーマンとして第二の人生をスタートさせた。
しかし、順風満帆と思えた人生は、理不尽な病によって一変した。難病・ALSを宣告されたのだ。身体は日々動かなくなっていき、やがては声も失った。昨日できたことが今日できない恐怖、介護なしでは生きられない情けなさ、残していく家族への不安……。そんな思いを抱えながら、それでも伊藤は毎日を懸命に生きている。
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